#わたしとJAL
わたしとJALの出逢いは1975年8月、高校2年生で鉄道ファンだったので両親に頼み込んで北海道にSLの写真を撮りに行かせてもらった時でした。青函トンネルも開通していない当時は、青森まで列車で行き青函連絡船で函館へ、函館からは夜行で苫小牧。室蘭本線や夕張線・幌内線で最期の活躍をする現役SLを追いかけ思い出を作りました。宿は全てYHだったなぁ。そこに転機が訪れました。台風が2個続けて北海道に上陸し道内の国鉄線全線が一週間不通になってしまったのです。帰れない…お金も足りないし二学期が始まってしまう…ウトナイ湖のYHに何とか宿は確保したものの、携帯電話なんて影も形もない時代、途方に暮れていました。同行の友達と二人、必死に考え、苫小牧から八戸までのフェリーを確保、八戸からは急行の自由席で上野まで戻るという持ち金で精一杯のプランを立ててYH内の公衆電話に並んで家に連絡、事情を説明しました。道内は内地に帰れない旅行者で溢れ、電話するのも大変な状況でした。事情を知った親は相談し、母がすぐに羽田空港に向かいJALのカウンターで交渉、翌日の一番機のスチュワーデスさんが航空券を持ってきてくれる事に。YHに連絡をもらい宿泊者全員から羨ましがられた、みな不安だった中、JALと親の対応が絶賛された瞬間でした。今でもJALには感謝しかありません、ありがとうございました。長くなり過ぎました、後半に続く😓
#わたしとJAL
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