2016年に年間旅客数8,000万人を突破した羽田空港はコロナ前の近年では日本国内の50空港、世界19ヵ国・地域の32都市35空港とネットワーク形成する、日本最大かつ世界でも有数の規模を誇る巨大空港です。
昭和初期に羽田空港から初めての定期便として運航したのは「日本航空輸送」という名の航空会社です。コックピットには操縦士(パイロット)と航空機関士(フライトエンジニア)の2名が乗り込んだものの、客室内には1人の人間の姿もなく、6,000匹の鈴虫と松虫が初の乗客になりました。
それは羽田空港が当時、「東京飛行場」と呼ばれていた1931年8月25日のことです。当時の規則に基づいて飛行場の中心部に1文字5m角の大きな片仮名で「トウキヤウ」と書かれた空港が開港しました。因みに現在の正式名称である「東京国際空港」と改称されたのは1952年7月1日のことです。
滑走路は南北に長さ300mの1本だけあり、開港に合わせて滑走路の舗装をしたものの、予算の関係で空港全体の手入れはできませんでした。干潟を埋め立てて平地にした用地はとりあえず飛行には支障がないということで、雑草がぼうぼうに生い茂っていたそうです。
当時の日本では管制塔と機体の間を無線にて繋ぐ離着陸はまだ行われておらず、全て手旗信号にて行っていたため、管制塔もありませんでした。
日本航空輸送は1928年10月30日に国策会社として設立され、1938年まで存在した民間商業航空会社です。雨天の中を7:30に飛び立った1番機は東京発大連行きのフライトでした。機材は米国から輸入したフォッカー式のスーパー・ユニバーサルという6人乗りの小型飛行機でした。
コロナ前の近年では日本のJALやANA、そして中国勢の航空各社が東京(成田)~大連間を直行便にて約3hで結んでいましたが、当時は東京を出発して大阪、福岡、蔚山、京城(当時)、平壌を経由し、時刻表上では大連まで27h30minもかかっていたそうです。
また、航空運賃も145円と高額でした。当時の総理大臣の年俸が約800円、1ヶ月分の給料が約67円であることから、総理大臣の給料2ヶ月分を合わせてもまだ足りず、庶民には無縁の乗り物でした。
#羽田空港開港記念日