YS-11の概要
YS-11は日本航空機製造が開発した戦後初の国産ターボプロップ旅客機です。
機種名であるYS-11の"YS"は輸送機設計研究協会の"輸送機"と"設計"のそれぞれの頭文字である"Y"と"S"をとったものです。一方、"11"の最初である"1"は搭載を検討していたエンジンの候補に振られた番号で、実際に選定された"ダート10"の番号は"1"でした。後ろの"1"は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が提案されました。機体仕様案の中には第0案もありました。
第二次世界大戦での敗戦後、日本の航空機技術の高さから再軍備を危惧したGHQより、航空禁止令が出され、国内の航空機は全て解体、焼却などで処分され、航空機会社は強制解散、その後1952年のサンフランシスコ講和条約による主権回復と共に航空機解禁が行われたが、その間に航空機技術は著しく向上し、旅客機は全て外国製が空を飛び、日本は国際的に取り残された状態でした。
1954年に国内航空機計画が通商産業省(現:経済産業省)の監督下で開始され、その開発担当として官民共同出資の日本航空機製造株式会社が1959年6月1日に設立されました。設計にはかつて零式艦上戦闘機等を開発した設計士達が携わり、製造請負は各部品メーカーが担当、新三菱重工(現:三菱重工業)が最終組み立てを行いました。
1962年8月30日に初飛行に成功したものの、構造や操縦性に問題があることが判明、改修を行なって1964年に型式証明を取得しました。しかし、国内の受注は予定の半分に減り、海外からの需要も芳しくありませんでした。生産数は当初計画の150機を超える182機になったものの、日本航空機製造は360億円の累積赤字を出し、1982年度に解散しました。
機種名であるYS-11の"YS"は輸送機設計研究協会の"輸送機"と"設計"のそれぞれの頭文字である"Y"と"S"をとったものです。一方、"11"の最初である"1"は搭載を検討していたエンジンの候補に振られた番号で、実際に選定された"ダート10"の番号は"1"でした。後ろの"1"は検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が提案されました。機体仕様案の中には第0案もありました。
第二次世界大戦での敗戦後、日本の航空機技術の高さから再軍備を危惧したGHQより、航空禁止令が出され、国内の航空機は全て解体、焼却などで処分され、航空機会社は強制解散、その後1952年のサンフランシスコ講和条約による主権回復と共に航空機解禁が行われたが、その間に航空機技術は著しく向上し、旅客機は全て外国製が空を飛び、日本は国際的に取り残された状態でした。
1954年に国内航空機計画が通商産業省(現:経済産業省)の監督下で開始され、その開発担当として官民共同出資の日本航空機製造株式会社が1959年6月1日に設立されました。設計にはかつて零式艦上戦闘機等を開発した設計士達が携わり、製造請負は各部品メーカーが担当、新三菱重工(現:三菱重工業)が最終組み立てを行いました。
1962年8月30日に初飛行に成功したものの、構造や操縦性に問題があることが判明、改修を行なって1964年に型式証明を取得しました。しかし、国内の受注は予定の半分に減り、海外からの需要も芳しくありませんでした。生産数は当初計画の150機を超える182機になったものの、日本航空機製造は360億円の累積赤字を出し、1982年度に解散しました。