搭乗日
2000年01月
オッターが飛んで行く島・・・私のSWAL原風景
2000年元日午後、RAC757便が多良間空港ランウェイ20へ進入中です。
DHC-6ツインオッターに乗って、そして離島の800m滑走路へ。
私の「南西・原風景」がここにあります。
初訪沖が1998年1月、JTA初搭乗が1998年9月、そんな私はSWALに乗っておらず、同社のことは文献で知るのみ。
塗装は当時のJTAとは異なる独自塗装、その前は1960年代JALカラー、と知ったのも文献からでした。
1999年11月に内幸町の航空図書館で1978年発行の書物を見ていたら、そこにSWAL DHC-6が載っていました。
60年代JAL塗装の機体、そして凝視したのが19人乗り機内のWC。
その時点の沖縄では橙色SWAL塗装のDHC-6が2機飛んでいたのですが、「こんな飛行機だったのか!」と俄然関心を抱きます。
ここからRAC搭乗への意欲が高まったのですが、よって私のRAC始まりはDHC-6だった訳です。
当時の多良間空港は現在地への移転前。カウンターには「SWAL」「南西航空」が残り、1992年11月のRAC移管前の様子が漂っていました。
またオッターの垂直尾翼を見たらSWALの燕マーク跡が判り、さらにグランドスタッフさんたち・機長さん・副操縦士さんとオッターの話。
そして後で画像を見て知ったのですが、RACで運航されていたDHC-6の主翼上面にはSWALロゴが描かれていました。
かくして私が思うに、オッターが発着する旧多良間は南西の世界・・・。
自分が知らないSWAL時代が、ここから近くに感じられるようになりました。
この2年後にDHC-6は沖縄の空から退役。
私は最後の最後のほうでオッターのファンとなったのですが、それにもかかわらず那覇空港であれバスターミナル上階であれ、現在に至っても一部RAC・JTAスタッフさんたちは「大阪大井はDHC-6熱烈愛好家である」とみなしている節あり?
これの象徴がtrico4周年イベントの時で、スタッフのJTA CAさんへ私の名を言えば初対面なのに名前だけ御存知だったこと。
本件はDHC-6のおかげなのですが、隣で編集部Tommyさんが感心しておられたのも印象的です。
来月1日、往時から25年になります。
#RAC #JTA
DHC-6ツインオッターに乗って、そして離島の800m滑走路へ。
私の「南西・原風景」がここにあります。
初訪沖が1998年1月、JTA初搭乗が1998年9月、そんな私はSWALに乗っておらず、同社のことは文献で知るのみ。
塗装は当時のJTAとは異なる独自塗装、その前は1960年代JALカラー、と知ったのも文献からでした。
1999年11月に内幸町の航空図書館で1978年発行の書物を見ていたら、そこにSWAL DHC-6が載っていました。
60年代JAL塗装の機体、そして凝視したのが19人乗り機内のWC。
その時点の沖縄では橙色SWAL塗装のDHC-6が2機飛んでいたのですが、「こんな飛行機だったのか!」と俄然関心を抱きます。
ここからRAC搭乗への意欲が高まったのですが、よって私のRAC始まりはDHC-6だった訳です。
当時の多良間空港は現在地への移転前。カウンターには「SWAL」「南西航空」が残り、1992年11月のRAC移管前の様子が漂っていました。
またオッターの垂直尾翼を見たらSWALの燕マーク跡が判り、さらにグランドスタッフさんたち・機長さん・副操縦士さんとオッターの話。
そして後で画像を見て知ったのですが、RACで運航されていたDHC-6の主翼上面にはSWALロゴが描かれていました。
かくして私が思うに、オッターが発着する旧多良間は南西の世界・・・。
自分が知らないSWAL時代が、ここから近くに感じられるようになりました。
この2年後にDHC-6は沖縄の空から退役。
私は最後の最後のほうでオッターのファンとなったのですが、それにもかかわらず那覇空港であれバスターミナル上階であれ、現在に至っても一部RAC・JTAスタッフさんたちは「大阪大井はDHC-6熱烈愛好家である」とみなしている節あり?
これの象徴がtrico4周年イベントの時で、スタッフのJTA CAさんへ私の名を言えば初対面なのに名前だけ御存知だったこと。
本件はDHC-6のおかげなのですが、隣で編集部Tommyさんが感心しておられたのも印象的です。
来月1日、往時から25年になります。
#RAC #JTA