先日JALの創立70周年を記念してJAL Facebookページで掲載した、先輩社員×後輩社員の対談。
第3回は運航乗務員編として、先輩社員で入社36年目の菱沼さんと後輩社員で入社13年目の藤澤さんに、昔と今で変わったこと、パイロットとして働いてきて嬉しかったエピソードや仕事に対する想いなどを聞きました。
今回はFacebookページで掲載した内容をさらに深掘りしてご紹介します!
── まず、お二人の職務経歴について教えてください。
菱沼:はい。私は1985年に入社いたしまして、運航乗務員になって最初の6年は、クラシックジャンボ(ボーイング747型機の愛称・以下ジャンボ)のセカンドオフィサー(※)を経験して、副操縦士になりました。
それから19年の間でボーイング747-400型機の副操縦士となった後に機長に昇格し、ジャンボには計25年乗務しておりました。その後ボーイング777型機、そして2年前からボーイング787型機の機長として乗務しております。
※パイロット資格を持っている航空機関士。当時は航空機関士として乗務した後で副操縦士となる制度があった
藤澤:私は2009年に入社しました。入社してから半年間は関西国際空港で地上研修をしまして、その後、本社(天王洲)の路線統括本部・国内路線事業部というところで4年ほど勤務しました。そのあと再び訓練に戻り、2017年の10月にボーイング737型機で副操縦士に昇格しました。3年半ほど副操縦士として乗務した後ボーイング787型機に移行して約半年、まもなく副操縦士として5年目になります。
── お二人がパイロットになりたいと思ったきっかけは何でしょうか?
菱沼:私の家は祖父の代からパイロットをしておりまして、私で3代目になります。祖父は日本のパイロットにおける草分け的存在でした。また父は戦後の1951年にJALができた時に、パイロット要員として入社しました。社員番号が117番だったそうです。JALで最初の飛行機であるDC-4型機というプロペラ機から始めまして、最後1982年に定年退職するころはジャンボに乗務していました。
そういった祖父と父の経歴もあり、私は子どものころから飛行機が身近な環境で育ちました。話を聞くたびに「空の上から景色を見たい」「そういった素晴らしい世界があるんだ」ということを子供心にも感じまして、私もぜひパイロットになりたいなと思いました。それが最初の動機かと思います。
藤澤:社員番号が117番とは…!歴史を感じますね。
菱沼:祖父が1918年にイタリアのミラノで初めて飛んで、今から3年前の2018年にちょうど私の祖父から始まって100年飛び続けた家系だということで、勝手ながら家族でお祝いをしたのを思い出しました。
藤澤:100年、3代続けてというのは本当にすごいですね。
菱沼:飛行機というのは20世紀になってできた新しい乗り物ですので、そうやって3代で100年飛び続けたのは珍しい時代でしたね。藤澤さんはどのようなきっかけでパイロットになりたいと思ったのですか?
藤澤:私の父は海外出張が多かったので、幼いころは“海外から父を連れて帰ってきてくれるのがJAL”というイメージでいました。
学生時代はずっと製薬系の研究者になりたかったのでまったく別の道を進んでいたのですが、大学生時代にしていたアルバイトを通じて人の近くで働くといった、研究者とは違う楽しさを知りました。
また、自分が通っていた大学のキャンパスが福岡空港に向けて飛行機が着陸進入していくコースの真下にあったので、自分の将来について考えていた時にどんどん飛行機が飛んでくるのを見て「自分は幼いころパイロットに憧れていたことがあったな」と思い出しまして、空港に行ってみたんです。
空港では小さいお子さまからご高齢の方まで多くのお客さまがご旅行やお仕事などさまざまな理由で飛行機に乗っていらっしゃるのを見て「パイロットは人のためになる仕事であり、同時に人の笑顔を見ることができる理想的な仕事だ」と思い志望しました。
── JALが運航を開始した当初のDC-4型機から、現在ご自身が操縦されているボーイング787型機ではコックピットも大きく変わってきたと思いますが、DC-4型機についてお父さまから聞かれたお話で印象に残っていることはありますか?
菱沼:DC-4型機はプロペラ機なのですが、与圧がないんです。外と同じ空気圧になるので、あまり高く飛ぶことができませんでした。富士山より高いところを飛ぶときは酸素マスクが必要で、お客さまにはパイプをくわえて酸素を吸いながらお乗りいただいたそうです。また客室乗務員は酸素ボトルを背負って、酸素パイプをくわえながらサービスをしていたと聞きました。
藤澤:すごいですね…今とはまったく違いますね。
菱沼:当時は機長と副操縦士のほかに「航空機関士」「航空通信士」、それからナビゲーターの役割を担う「航空士」がいました。今のようにGPSがありませんから、星を観測して自分の位置を出すナビゲーターが必要だったのです。ですから太平洋を渡るのにコックピットに5名の乗員が乗っておりました。
それから時代と共に飛行機も進歩し、私が入社した時のジャンボジェットはJALが1970年に受領した機材です。まだあまり自動化はされておらず、エンジンは4つ付いていますが調子もバラバラでしたし、それぞれに癖があってそのバランスを取るために航空機関士がおりました。
燃料の消費量などもエンジンごとに違うわけです。そのためフライト中も航空機関士が刻々と燃料の計算をして、例えば「何時何分に到着予定のサンフランシスコまで、これだけの燃料を使いますよ」といったことを教えてくれていました。また、カーナビのように到着予定時刻や到着経路は出してくれないので、それらをすべて手計算で導き出していました。
風速を判断してパイロットが飛行時間や高度変更時期を手計算し、経験と勘によってすべてを決定していました。ですから当時から“職人技のパイロット”がいて「グレートキャプテン」「名キャプテン」なんて呼ばれていたんです。
── 当時はものすごい数の計器があって、それを一つ一つ読み取っていらしたのですよね。
菱沼:はい。一つの計器から一つの情報を読み取るのですが、その情報を総合的に判断し計算をするのはパイロットの仕事でした。今はコンピューターがそういった情報を集約してアウトプットして我々に教えてくれますが、当時はそのアウトプットがなくインプットだけですので、一つの計器から一つの情報、一つのスイッチから一つの操作しかできなかったんです。
── 今の最新型機材は“すべて飛行機が教えてくれる”というイメージです。
菱沼:そうですね、ボーイング787型機も自動化が進み自動着陸はもちろんナビゲーション、進路などもすべて自動でできます。ただその情報というのはコンピューターが計算した情報であり、その計算は正しいのかをモニターするのは我々の仕事です。「その情報のまま本当に飛んでいいのか?」というモニター量としては、現在の方があるという気がしますね。
── 今までで一番大変だったフライトはありますか?
藤澤:私が一番大変だと思ったのは、副操縦士として奄美大島に行った時のフライトです。
飛行機がより安全に着陸するには向かい風のなか着陸することが重要なのですが、その日はあまり天気が良くなかったこともあり真横から風が吹いていました。そこで機長と決められた規定や飛行機の性能を確認しながら、オペレーションコントロールセンターや奄美空港のスタッフと連絡を取り、最終的に機長が決断をして着陸を実行しました。
支援を受けながらでも最終的に決断して実行する機長の姿を見て、まさにパイロットの仕事だなと思いました。
── 印象的だったフライトや出来事があれば教えてください。
藤澤:私が副操縦士になる前のエピソードなのですが、2011年、東日本大震災があった際にJALとしてたくさんの臨時便を飛ばしたことです。震災後すぐに間接部門と現場部門が調整を開始し、救援やいろいろな理由で現地へ行かれるお客さまのお役に立ちたいという想いで、さまざまな課題を解決し、全社をあげて東北地方へ多くの臨時便を飛ばしたことが記憶に残っています。
今は新型コロナウイルス感染症の影響で自由に移動ができないお客さまもいらっしゃると思いますが、さまざまなご事情で搭乗されるお客さまのために一生懸命乗務をしたいと思います。
── JALで働いてきて、いろいろな出来事や変化があったと思いますが、そのなかでも変わらないことはありますか?
菱沼:長年パイロットとして飛んできて、さまざまな先輩方を見てきました。そのなかで変わらないことの一つが皆さん共通して「空が好き」ということです。
私は訓練生の時「もしかすると自分はパイロットに向いてないのでないか」とマイナス思考になって落ち込んだり、教官に怒られたりしたことが何度もありました。ただ誰よりも飛行機が好きで、どうしても空を飛びたいという強い気持ちがあったからこそ、健康管理や勉強に耐えられたのだと思います。訓練は厳しいけれど、この先には素晴らしい世界があるんだというモチベーションをキープできるので、空や飛行機を心から好きでいないとやっていけないなと思いました。
藤澤:「空と飛行機が好き」という想いは私も変わらないです。パイロットになった今でも飛行機を眺めるのが好きですし、根底にある想いは皆さん同じだと思います。
私たち副操縦士の目標は機長になることなので、普段のフライトではキャプテンからいろいろな経験のお話を聞いたり、その機長が持っていらっしゃる考え方やポリシーなどに触れたりするのが好きです。
自分が将来機長になり大きな責任を背負うことを考えたとき、どんな機長になりたいのかといった「理想の機長の姿」を考えるんです。そこで隣にいるキャプテンの姿を感じながらいつも仕事をしています。そして先輩たちが守ってきた安全運航を自分も守り続けていきたいと思います。
―― 昨年はコロナ禍でフライトが減ってしまっていましたが…
菱沼:そうですね。私はボーイング787型機に乗務しておりますので、昨年も貨物便としては運航をしていました。ワクチン輸送にも従事させていただき、使命感のあるフライトが多かったなと思います。
藤澤:もちろん物流を止めないことも大切なのですが、ロビーを歩いていてもお客さまがほとんどいらっしゃらないガランとした空港を見たときは寂しかったですね。一刻も早く状況が落ち着き、たくさんのお客さまの笑顔を見られる日がくることを心から願っています。
――ありがとうございました!
JAL創立70周年記念投稿は今回で最後となります。改めまして、ご覧いただきありがとうございました!今後ともJALグループ、そしてtricoをどうぞよろしくお願いいたします。